2010年11月11日『第三国定住の復権?―国際保護、恒久的解決と負担分担―』

「第三国定住の復権? ―国際保護、恒久的解決と負担分担―」
報告者:小泉康一 (大東文化大学国際関係学部教授)


日時: 2010年11月11日(木) 18時30分-20時
場所: 財団法人国際教育振興会 日米会話学院日本語研修所  於:四ツ谷
当日配布資料はこちらをご覧下さい。


開催の挨拶:本間浩(代表世話人)
『難民研究フォーラム』は今年度、第三国定住を統一テーマとしており、第一回目から発表を頂いております。今回発表を行っていただく小泉先生は、最近インドシナ難民の定住制度に関する論文を書かれております。この論文では丹念に、日本におけるインドシナ難民定住制度が非常に多く引用の事例を示しながら展開されており、第三国定住問題を扱っていくうえでも、欠かせない基本的な論文であると思います。このように第三国定住の問題に対し非常に深い蓄積のもとご報告していただけることは、大変興味深い話を承れるのではないかと思っています。
報告要旨
1.はじめに:今回の発表の概要について
難民の問題の解決という点から言えば、第三国定住というのは一つの解決策、方策でしかない。この報告では、基本的な事柄を確認する形で話を進めていきたい。
1990年代以降、伝統的な三つの解決策のうち、自発的帰還が強力に推し進められてきており、第三国定住という解決策は肩身の狭い立場にあった。現時点で「第三国定住」をどう捉え、どう考えたら良いのか、というところに、タイトルに疑問符をつけた意図がある。
副題の国際保護、恒久的解決、負担分担という三つの用語は、互いに関連しており、それぞれが重要な事柄であり、第三国定住は、国際的な難民制度の中で非常に多面的な性格を持っている。
第三国定住とは何か、と定義を考える時、第三国定住の定義はあまり見ることがなく、一般に第三国定住は取り行われる手段となっていることから行政用語と思われる。
第三国定住の目的は、次の4点に絞ることができる。
第一は、「国際保護の手段」で、難民が物理的に生命の安全が脅かされ、恣意的な拘留をされてしまう場合など、これが人権の確保・保護というものを保障する上で、唯一の手段となる。
第二は、「恒久的解決を確保する手段」で、難民の物理的な生命を、長期的に確保することである。
第三は、「過剰負担の庇護国との負担分担」で、これは当然、かばい守った国が負担になるため、その負担を分担するということが問題になる。
第四は、「市民権の再確立」で、難民と国の繋がりを再び取り戻すことである。第三国定住では受け入れ国において、いろいろなサービスを受けることが必要であり、市民権が最終的に取得され、国とのつながりを取り戻すことにある。
2.第三国定住という用語について
UNHCRやその他では「resettlement」(再定住)という用語が使われているが、日本では「第三国定住」という言葉が一般的である。この報告では、第三国定住という使い方をするが、その意味は同じである。「(第三国)定住、ないし再定住」という言葉がいつ頃登場したかというと、「国際難民機関」(International Refugee Organization, IRO. 1948? 1950)の条文の前文にresettlementという言葉が入っている。このほか「1951年国連難民条約」を起草するため、各国の国連全権大使会議による推薦文の中にもresettlementという言葉が入っている。これを受けて、1950年、UNHCRに難民保護を委任していくというふうな形が出来あがっていき、そこで恒久的解決策として、?自発的帰還、?第一次庇護国での統合・定住、?第三国定住、という三つの解決策が登場する。
1960年代頃からのアフリカの時代には、冷戦体制と関係ない場合には、植民地からの独立という形で難民が祖国に戻ることもあったが、おおむね難民は1980年代までの冷戦体制の中で、自国に戻るというのはあり得ない話であった。
冷戦体制という中で、上述の三つの解決策というのは、平等に考えられていた。
3. 第三国定住略史について
第二次世界大戦後、難民・避難民が多数ヨーロッパに残っており、彼らはまた、ソビエト圏、東欧圏が共産主義体制になったことで元の国に戻れない人々であった。その後、1956年のハンガリー動乱をはじめとして1950年代、60年代を通じて、「難民」とは欧州の問題であり、定住活動の中心は欧州であった。彼ら難民の多くは、欧州あるいは北アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドその他の国々へ移動した。
1970年代に入り、定住問題はラテンアメリカや東南アジアにその中心を移した。1972年にウガンダのイディ・アミンによるアジア系ウガンダ人(彼らは、インド人で約7万人)の追放で、彼らは英連邦諸国へ定住した。同時期の南アメリカ・チリでの軍事クーデターでアジェンデ政権が倒れると、チリやその隣国から欧州へ庇護を求めて人々が移動し、1万5000人が、西側国家に受け入れられた。また、1975年から、正確に人数は確定していないものの、約100万人を超えるインドシナ難民が発生し、アメリカを始めとする西側諸国に受け入れられた。
冷戦体制終結後の1980年代の末から90年代は、時代が新しく動き始めた。この時期UNHCRは、冷戦体制の下では解決のできなかった「滞留難民」について、問題の解決に取り組み始めた。
東南アジアでは、?ベトナム難民への包括的行動計画(CPA)が、?ラテンアメリカでは、「中央アメリカ難民国際会議」(CIREFCA)が、?アフリカでは、二つの「アフリカ難民援助国際会議」(ICARA ?とICARA?。時期的にこれらは1980年代初期ではあるが)が開かれ、この三つの会議は、国際的な動きとして、それぞれ違った役割を果たした。補足的に言えば、インドシナ難民計画の場合、帰還と定住が主で、難民ではないとみなされた人は帰還させられ、そうでない人々は定住することができた。中央アメリカの場合、イタリアによる資金拠出が成功の一因だったと言われており、帰還では、メキシコから中米のグアテマラその他の国々へ難民は帰って行った。ICARAの場合には、発展途上国側と先進国側の意見があわず、合意を見ないうちに、エチオピアで飢餓が発生して、その後、話はうやむやになり、国際的には失敗だったとされている。特にアフリカの場合には、難民への生活支援の費用が莫大となったために、1985年頃に、UNHCR主導の「専門家会議」が開かれ、自発的帰還に向けての考え方と取り組みが、専門家会議の中から出てきている。
4. 1980年代末?1990年代の動き
緒方貞子氏が難民高等弁務官に就任した1991年、最初のUNHCR執行理事会(the 42th
Executive Committee)で、大量の難民を自国へ帰していくという自発的帰還の方針が出され、その後、帰還は解決策として主流になっていった。この執行理事会の決定は、UNHCRの難民政策の転換点である。こうして1990年代以降、自発的帰還、つまり難民の人たちを祖国へ帰していったが、実際には、祖国が戦火などで必ずしも難民が帰れる状況ではない場合でも、帰還が強力に実施された例も見られた。これは難民保護の観点から、非常に大きな問題であったが、真の解決策は難しかった。
この時期は文字通り、この「自発的帰還」というのが唯一の解決策となり、定住という問題はかなりかすんでしまったと言える。
5. 第三国定住の計画とカテゴリー
第三国定住というのは通常、UNHCRが難民を斡旋して計画を実施するものであるが、規模はかなり小さい。年間の定住数は、UNHCRが関与する全世界の難民数の1%以下で、例えば1990年代末では、約1,200万人中わずか10万人しか定住していない。年間10万人という数は決して多い数字ではない。
UNHCRのウェブサイト上で2009年の定住数を見てみると、総計で11万2400人、19カ国で受入れられている。この数は、2008年よりも25%増加しており、1995年以降、この定住数は最大となっている。しかし現在の世界の難民数は、2009年末で880万人である。単純にこの880という数字を母数にして11という数で割ると、1.25%が定住したことになるが、UNHCRが関心を持つ難民、国内避難民等を加えると、母数は4,300万人となり、その場合定住数は1%以下どころではなくなり、ほんのわずかな数になってしまう。
1992年のボスニア・ヘルツェゴビナでの大量難民流出状況の場合、欧州では国によって受け入れに温度差はあったものの、各国の対応は一般に、あまり前向きではなかった。
第三国定住は、一般的に理解されているところでは、最後の手段とされ、あまり好まれない選択肢である。第三国定住という解決策が取られる場合は、庇護国において生命の安全が保たれないなど、保護に問題がある時に、第三国定住が取られている。三つの解決策の優先度は階段状のようになっており、第三国定住の優先度は低い。また第三国定住は、難民にとっても、新しい社会に入り、異なる文化への適応の問題、統合の問題も負担となっており、受け入れ国においても、定住や統合費用、場合によっては航空運賃などの交通運賃等、金銭問題があると言われている。
定住受け入れ国は、時期・時代によって移り変わるが、現在はUNHCR執行理事会に参加している国の中で、常に固定した定住計画を持っているのは10ヵ国、オーストラリア、カナダ、デンマーク、フィンランド、オランダ、ニュージーランド、ノルウェー、スイス、スウェーデン、アメリカ、である。これらの国々がUNHCRの通常計画に参加しており、年毎の定住枠を提供している。
危険な状態にある女性難民への特別な定住計画はいくつかの国が設定しているが、女性難民への定住枠を設定していない国の場合でも、既存の「弱者集団」という定住枠の分類に入れている。
6. UNHCR定住作業グループ
冷戦後は自発的帰還が強力に推し進められたが、一方、定住に取り組む「作業グループ」というのがUNHCRの音頭で、有志の国々を中心にして1990年代の半ばに誕生している。
定住という解決策は影が薄いが、例えば前述の1991年の緒方弁務官就任後のUNHCR執行理事会では、保護と定住をつなげるという考え方が表明されており、この定住計画の中で各国に対し、国際連帯の一部として定住枠の設定の要請がなされたが、対する各国政府の方では、定住という考え方、概念がそれぞれ異なり、独自の方法で定住を実施していた。
ここでは個々の国々の定住状況を扱う余裕はないので、移民国(アメリカ、オーストラリア、カナダ、ニュージーランド)と、非移民国(EUや北欧諸国)の考え方の違いを大きく見ていく。両者は、考え方が非常に異なる。移民国では、定住は国際保護の一部であるという考え方はあるが、同時に自分たちが持つ移民計画の中の一部分とみなし、入国してくる人々は経済的発展を担う人々だと見ている。保護の手段としての定住という考え方は、比較的薄い。
非移民国の定住の考え方は、ある意味では難民条約の考え方に近く、難民という特定グループを保護するという目的を持っており、人道援助という考え方が非常に強い。これらの国々の中には、障害者難民を引き受けたり、非常に困難な人たちの受け入れも実施している。
1970年代、1980年代から、多数の人々が経済的に豊かなEUに入り込もうとし、難民認定の申請者を含めて、彼らに対するEU各国政府への国内世論の圧力がかなり高くなってきた。経済危機や失業、外国人嫌いが、庇護者に対する国民の態度を厳しくして、政治問題化し、各国とも難しい状況にある。これまで人道的に庇護を与えてきた非移民国のEU各国でも、難民に保護を与えるのは良いが、費用対効果を考えるべきだという考え方が重要度を帯びてきている。
移民国と非移民国の考え方の相違は、各国々の定住枠に影響を与えているが、同じ定住という行為であっても、UNHCRの定住の基準と各国政府の基準自体も異なっている。
このように、各国政府間でも定住概念の考え方が異なっていたため、前述のUNHCR作業部会において、統一的なものにする動きはあった。1995年6月の同作業グループの最初の会合では、今後の協議の枠組み作りの話が出ている。
そして、その1ヵ月後の1995年の7月の会議では、作業グループの任務が話し合われ、一つ目に人数・枠・基準・手続き・資金について、二つ目は定住概念について、協議するというふうに決められた。作業グループの会合は、2ヵ月おきに開かれ、参加者は各国のジュネーブ代表部の難民担当官、本国からの専門家が参加し、2ヵ国が共同議長となり、彼らは会議の前にUNHCRと協議し、議題を決めてから協議する形がとられた。1996年11月の会合には、日本も加わった。
しかし、作業グループの認識では、各国々がそれぞれ異なる基準を使っており、国際的に統一するというのは無理であり、むしろお互いに各国の計画を知ることが有用ではないかということになっている。移民国の間では、相変わらず、定住概念の統一化は緊急性が乏しいという雰囲気があった。
作業グループでは、ボスニア・ヘルツェゴビナ問題に関連し、難民が旧ユーゴ圏からヨーロッパに流れた場合にどのように定住させるのかという、「一時保護」の概念が協議され、これを定住枠に入れ込んだが、国によって対応がばらばらで、結果として作業グループの話題にする必要はないということになり、一時保護の問題に関連して定住についての論議はなかった。
作業グループの問題点としては、定住する難民に対して、各国の定住計画の量と質の問題、負担分担について基準の和合の問題がある。保護の「質」については、すぐに帰国させるから、大きい定住枠を設けるまでと、各国毎に異なる対応がみられる。難民の負担を公平に分担するという意味で言えば、ある一つの国が負担を過剰に負ってしまうということがあり、分担がうまくいっていないという問題もある。その他、別の問題としては、ボスニアの場合のように、人々を定住させることで、国の再建を担う人がいなくなるため、国づくりが困難となることも指摘されている。
7. 負担分担の考え方:概念をめぐる交錯した歴史と大量移動時代
難民条約の前文では、ある国に保護の過剰な負担、つまり負担が非常に重くなった場合には、国際協力が必要だと書いてあるが、これに対しては、財政支援と難民の引き取りという二つの主要な対応の形がある。
難民の分散策については、1956年のハンガリー動乱、1973年のピノチェトによる軍事クーデター後のチリ人の出国、1979年から規模が拡大したインドシナ難民の場合でも使われている。
負担分担というのは、以上のように、元々は難民の流入で困っている庇護国に連帯するという、国際連帯の原則として1950年代に始まったが、最近は、負担分担という考え方が歪曲された形で使われている。
庇護申請者がEUへ大量に流入したことで、これらの国々では、政治的、社会的、経済的に負担する費用が高くなり、国民の懸念が広がった。各国は、自分自身の利益を考える次元に入ってしまい、難民の問題は、難民が発生した地域で解決してくださいということになっている。
1990年代初め以降、主にEUの先進国を中心に、難民の出身地域内での受け入れという考え方がとられ、難民の発生地で解決を図るという方向が出てきた。近年では、具体的にイギリスの提案のように、出身国が存在する地域内に「プロセシング・センター」を作り、そこで難民を審査し、難民と認められた人だけを受け入れるとしたが、この考え方は、先進国での負担分担の責任を回避する理由に使われている、という指摘がある。発展途上国においては、地域内での独自の解決は難しい。
負担分担という言葉は、以上のように、最初は、大量に難民が出てきた場合、難民を保護するという上での責任を分け合う、ということで使われていたが、各国が自分の利益を考えるようになるにつれ、負担分担という用語の意味が歪んでしまった。
負担分担という考えで、一番重要なことは、どういう「基準」でやるかということである。代表的なものとしては、「公正に基づく方法」(経済力や国土面積のような、静的な指標を使う)や、「結果に基づく方法」(難民の受け入れにより、国内の民族バランスの崩壊、国内経済が不活発で保護が不完全、基準の遵守が困難、物質的援助が不十分といった結果が出てくる場合)があるが、まだ合意が得られるものはない。
負担分担の定義は、大きな問題を含んでいるが、その一方、この制度ができてしまうと、今まで何も負担しなくてよかった国までもが、自分のところに入国・定住させなくてはならなくなるという事情がからみ、国によっては論議への参加自体が消極的である。
8. 第三国定住をめぐる状況と課題
一般的な状況として、第三国定住は他に方法が無い場合に、通常個人ベース、少なくとも「あるグループ」に対して行われている。定住ギャップも存在しており、冷戦終結以降、UNHCRが必要とする定住数に対して各国から提供される人数枠に差がある。提供された人数枠組みの中で、毎年1万人以上が使われないまま終わってしまう。
現下の状況と課題を言えば、1990年代の初期、定住国では、庇護法とか移民法、あるいは政策に、厳しい修正が加えられてきており、入国制限に使われる怖れがある。
庇護申請者と言われる人々のうち、文献によれば、4%の人々が自力でやってくるとされている。UNHCRのウェブサイトによれば、難民という人々は、難民申請者として全員が先進国に移動してくるわけでもないし、激増することもない、という。圧倒的多数の難民は、発展途上国に滞在を続けている、というのが現状である。
1980年代以降、難民と移民が混じり、移民が難民と偽る、「混合移動」という形で移動する人々が、欧州、北アメリカ、先進国で増えた。正規の書類がないために、難民申請ができない、難民申請をしないというのは、非常に大きな問題である。
各国政府、UNHCR、各国のNGOは、難民の問題の解決に対してそれぞれ考え方も違い、やり方も違うというのが現状である。
以下、本報告では触れなかった問題点を簡単に述べれば、「国際協力の義務はあるのか?」=法的義務はない。「人間を助ける場合コストは問題になるのか?」=決定的なのは政治的な意思がどうなのか、ということであろう。
現在、主に政治家側からの論理として、定住というのは庇護政策に置き換えられるという言説もあるが、第三国定住というのは、庇護と共存はできるが、完全に庇護に変わる選択肢ではない。
解決の一つの仕方として、従来の考え方の中には、一つの致命的な誤りがある。難民というのは「動かない」というもので、難民を難民キャンプに収容して、そこに各国の「定住審査・選別チーム」が出掛けて行って、面接をして、それで難民を引き取ってくるという考え方である。これはもう現実とはそぐわなくなっている。難民は、キャンプから都市部に出て行っていることも多々ある。難民は移動しないという考え方は改めなくてはならない。
そして、何ができるのかというのは、また別の大きな問題である。
以上
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